異世界へ行きたい

光と闇の戦いではない世界設定について

エコ産業は、宇宙産業

 

 地球が温暖化していなかったら、エコを行う必要性はないのか。

 

 全ての異常気象が消え去って、昔の穏やかな地球に戻ったとしても、エコの必要性は、消えない。

 

 環境性能を考えないものは、人であっても、物であっても、そして社会システムであっても、宇宙には上がれないからである。

 

 SF映画に登場する悪役だって、きっと、ちゃんとゴミを分別してる。無駄な電力も使わない。

 

 エコを表す色は、緑ではなく、宇宙を表す黒にした方が、過度に熱狂せず、落ち着いて、エコに取り組めるのかも知れない。

遊び探しも、自分探し。

今週のお題「何して遊んだ?」

 

 人は、自分に合うものに対しては、見て楽しもうとは思わない。

 

 たとえば、自分の身の丈に合わない格言を掲げても、行動には移せない。だから、口先だけの人間になる。

 自分に合致する格言と出会った時、人は、身体を動かしたい衝動にかられる。

 

 たしかに、自分にピッタリと合う道具を手にして、それを全く使わず、ただ壁に飾っておける人が、どれたけいるのだろうか?

 

 正しい格言は、良い地図になってくれると思う。

 でも、自分に合致する格言は、自分好みの車になってくれる。目的地が無くても、思わず運転してみたくなるような。

 

 もしかしたら、自分に合うものを見付けたからって、立派な人間になれるわけではないのかも知れない。どちらかと言うと、・・・遊び心を持つ人間になれるのだと思う。

 

「好きな街」

 

 今週のお題「好きな街」

 

 僕が好きな街は、世界観がある街です。

 しかし、世界観と自由のバランスが、問題になっている気がします。

 

 自由な街というのは、そこに住む人々が制約に縛られない街のことを言うのでしょうが、そうである為には、出来る限り、街はフラットな、無個性な状態でなければならなくなります。

 人の個性と街の個性は、相反する、ということでしょうか。これでは、世界観を持つ街が減っていってしまいます。

 どうにかならないのでしょうか?

 

 世界観 = 自由より面白い足枷。

 

 好きなことが見つかると、人は自由を失います。

 好きな曲、好きな食べ物。それらは、あなたを縛るからです。

 でも、嫌じゃないですよね。

 好きな街だって、同じです。その街から、自由より好きな何かを、他にはない自分好みの制約を感じたと思えませんか?。

 

 自由より面白い足枷 = 好きなもの。

 

 そういう風に思えば、人と街の個性が潰し合うことは、無くなるのではないでしょうか。

 

 

鬼は外、で終わらないで

今週のお題「鬼」

 

 「水・火・木」のお話で説明したいと思います。

 

 ある森で、火の神様が火事を起こしました。

 そこに、水の神様が雨を降らせて、その火事を消しました。

 森の木々は、少し燃えただけで済みました。

 

 しかし、しばらくすると、また火の神様が火事を起こしました。

 なので再び、水の神様が雨を降らせて、火事を消しました。

 そして木々は、また少し、燃えてしまいました。

 何十年、何百年と、これが繰り返されました。

 

 森を守る為に、水の神様は、一生懸命に火事を消し続けました。

 そして、火の神様に一度も負けることなく、全ての戦いで勝利を収めたのでした。

 

 ですが、水の神様は、大切なことを忘れていました。

 火を消す為の雨を降らせることに頑張りすぎて、木を育てる為の雨を降らせることを忘れていました。

 

 森は再生せず、焼失し、木の神様はいなくなってしまいました。

 

 このお話で言いたかったことは、火の反対は木であって、水ではないということです。

 木は火と戦うことができません。でも、火が燃え盛ったら、それと同じ分だけ木が育つことでしか、世界のバランスを保つ術はありません。

 逆に水は、どんなに強くなっても、火とバランスをとることはできません(木をサポートすることはできます)。

 

 「鬼は外」ができるのは、桃太郎だけですけれど、世界に恐ろしい鬼がいる分、それとバランスをとって、世界を和ませることが出来るのは、村人の豊かさのみであって、桃太郎の強さではないのですから。

 

 

「正しさ」と「強さ」は仲が良くて困るという例 1

 

 正論が通る理由は、相手がこちらの言いたいことを拾おうとしてくれているから。つまり、半分は相手のお蔭である。

 

 自分の言ってることが正しければ通る、というのは、自分ひとりが優れていれば通る、と考えているということ。

 

 「君の為に言っているんだ」

 と言って、正論を語りながら、しかし相手と全くコミュニケーションをとろうとしない人がいる。

 

 正しい人って、相手を無視するものなの? そんなはずはないと思う。

 

 

多様性は、道徳ですか?

 多様性とは、理解し合える事ではなく、理解し合えない事を受容できる性質を指します。

 多様化を推し進めていくと、その中に、「絶対に受け入れられない」と思うようなものが出てきます。

 人類が持つ多様性は、一個人が許容できる範囲に収まるものでは、到底ないからです。

 しかし、自分に理解できるものだけを受け入れ、それ以外を排除しようとするのでは、多様化を目指しているとは言えません。

 なので、その「絶対に受け入れられない」ものと、共存しなければならなくなります。   

 ですから、多様性を維持するには、人と人、国と国の間に、ある程度の距離を作る必要があります。そうしないと、耐えられない人が出て来るからです。

 多様性には恐怖が付きまといます。そのことを理解しつつ、それでも価値を感じ、大切にするというのなら、問題ないと思います。

 しかし、多様性とは道徳だ、と考えている人の場合、多様化することで、人類はみんなひとつになれるという矛盾したシナリオを信じてしまっている可能性があり、それは問題だと思います。

 

  

 

  

オリンピックという名の選手はいない

 紛争を停戦合意させてしまう力が、オリンピックにはあります。

 スポーツ選手自体に、その力はありません。

 

 オリンピックとスポーツ選手は、イコールではありません。

 スポーツ選手を守っても、オリンピックは守れません。

 

 スポーツ選手だけでなく、政治家でも、軍人でも、宗教家でも出来ないことが出来る。それがオリンピックです。

 独立した個性があるのです。 

 オリンピックにしか出来ないことを守ること。それが、オリンピックを守ることになります。

 

 オリンピックを守ろうとしている人と、オリンピックに守られようとしている人とを、区別してください。